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朝比奈隆指揮 | 1970年代の演奏 |
アバド指揮 | ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 |
ヴァント指揮 | ケルン放送交響楽団 |
ケーゲル指揮 | ライプツィヒ放送交響楽団 |
ケンペ指揮 | ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 |
シャイー指揮 | ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団 |
シューリヒト指揮 | ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 |
シューリヒト指揮 | シュトゥットガルト放送交響楽団 |
チェリビダッケ指揮 | ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 |
ハーディング指揮 | スウェーデン放送交響楽団 |
フルトヴェングラー指揮 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 |
ベイヌム指揮 | ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 |
ベーム指揮 | ザクセン国立管弦楽団 |
ボッシュ指揮 | アーヘン交響楽団 |
ボルトン指揮 | ザルツブルク・モーツァルテウム・オーケストラ |
マタチッチ指揮 | フランス国立管弦楽団 |
ヤノフスキ指揮 | NHK交響楽団 |
ヤルヴィ(パーヴォ)指揮 | NHK交響楽団 |
レークナー指揮 | ベルリン放送管弦楽団 |
レークナー指揮 | ベルリン放送管弦楽団(ライヴ) |
ロスバウト指揮 | 南西ドイツ放送交響楽団 |
2005/8/4 テンポ変化の多い動的な演奏。 スケルツォ181小節のホルンはクラやヴィオラのように吹いているのかな? 第1楽章終結、507のトランペットがオクターヴあげるのは前にも聞いたことあるような気がするが、あまり好きでない。その前の一度音量を落とすのも、レークナーみたいには決まらない。 フィナーレ573小節から、3番トランペットが聞こえないのはどうしたことだろう? 2006/5/20 この演奏との出会いは20年以上前のFM放送でのものだ。 そのデッキもとっくに鬼籍に入り、この演奏との再会は海賊版レーベルからのCDだった。紫色のジャケットのMETEOR MCD-060だ。録音データなど何も書いてないが、マタチッチ独自の楽譜の変更やミスの位置、雑音の位置などから間違いなく同じ演奏だと分かる。 今度の正規盤は、その点ずいぶん良い。 アダージョの待望の副次部はちょっと不自然なくらい大きく感じたMCD-060だったが、今度の正規盤も大きな音だ。強さに硬さが加わった、陶酔とは違うこの響きこそこのコンビの特徴が集約された部分かもしれない。 あちこちから初版風の変更が聞こえてくるが、アダージョの最後はフルートのみ初版なのか? 2006/6/6 ただ、たぶん、ぼくのヴァントの演奏の根本的イメージは、このケルン放送響とのブルックナーだと思う。 第1楽章冒頭はいつ始まったのか分からないほど小さな音だ。金管のファンファーレ部分は、休符の端折り具合がそれほど大きくない。というか、もしテンポ変化させているとしたら、その変化の具合は少ない。 これこれ、これが良くも悪くもぼくのヴァントのイメージだったっけ。 それにしても、第2楽章や第4楽章の冒頭はちゃんと聞こえるのに、どうして第1楽章の冒頭だけあんなに小さな音なんだろう? 2006/6/27 友人H君が持ってきたCDジャケットを見てビックリした。 よく見たら、IVOR BOLTONという指揮者だった。 とりあえずアイヴォァ・ボルトンにしておこう(^_^;) で、聞いてみた。なかなかイイじゃん! 2006/7/20 教会の残響をタップリ取り入れてあるわりにはクリアな録音で、なかなか美しい演奏だった。 面白かったのは第1楽章15小節、最初のフォルティッシモが別の音が入った和音のように響くことだ。よく聴けばちゃんと楽譜通りのオクターヴユニゾンなのに、一瞬なにか違う音が入っているかのような錯覚に陥った。 展開部に入って最初のフォルティッシモ(241小節)では16分音符でクラリネットばかり目立って面白い。 第1楽章もそうだったけど、第2楽章も音が小さ過ぎていつ始まったのか分からないくらいだ。こればっかりは演奏をその場で聴かねばダメだ。ライヴ録音の欠点とも言えそう。 複リズムの不安定さを経て到達する待望の弦楽合奏(副次部《B》)が今一なのも食い足りない。ヴィオラ、チェロ、バスが音を保たないので充実感に乏しいのだ。つまり2拍ごとに軽くアクセントがついて音が抜ける感じになり、やや鬱陶しい。 で、この楽章の終結は、何? 2007/4/27 演奏は予想通りというか、今まで聴いてきたハーディングの個性をそのまま生かした名演。 全くゴチャつかない響きと颯爽としたフレージングは、人間的なドラマを皆無にした生命の根源的な力を感じさせ、それが実に気分イイ。 フィナーレ・展開部後半から(M〜Pの手前)のクラスター手法的な部分の処理など素晴らしいもので、生命誕生前のエネルギーが宇宙を飛び交うような錯覚すら覚える。 宇宙といえば、第1楽章・展開部のLからNあたりも宇宙エネルギーを感じさせる大好きな部分(シューベルトの最後の弦四に通じる)だが、ここは今一平凡だったのが惜しい。 アダージョ待望の副次部の奏法も『あり』とはいえ肩透かしを喰う人が多いのではなかろうか。恍惚や陶酔は皆無だもの。 2007/6/19 1986年の東京ライヴ。10月22日のサントリーホールでの演奏だ。 実はこの日、この演奏を会場で聴いた。 この『第五』で印象に残っているのは、恐ろしく遅いアダージョだ。 そう、副次部ホルンのピアニッシモのきざみは、その張り裂けそうなくらいの緊張感に息を飲んだっけ。 流石に録音からはそういった空気感は伝わってこない。これもチェリが録音を否定した理由の1つだろうな。 素晴らしいディスクだ。 2008/2/15 1936年録音。件のサイトのmp3。 曲とがっぷり四つに組んだような、直球勝負のような潔い演奏だ。 とにかく弦をしっかり鳴らすところは、感動的。なにせ弦楽五部が、けっこうしっかり聞こえてくるのだから大したものだ。 第1楽章やフィナーレの展開部ですら、響がダマになってない。特に後者は、聴いていてワクワクしてくるくらい、響の交錯が生きている。 アダージョ・主部ではヴァイオリンの6連符部分では微笑ましい程度の駆け出しだし、続く副次部の主題はやや意思の力が強過ぎる嫌いはあるが、その決然とした響には深い愛が感じられる。 第3楽章もよく引き締まった堅固な演奏。多少ベートーヴェンっぽいといえそうだが、細部までしっかり弾かれた音達は生き生きしている。 第1楽章の主部もだが、フィナーレの主部もテンポが良い。 その後、流石にファゴットは聞こえないがなかなかの情報量。最後は何の思い入れも無くあっさり終わる。 ほぼハース版通りだが、第3楽章のみ違いがある。 ハース版の出版は1935年ということだから、最新版による意欲的な演奏だったということだろうか。 2008/2/21 【ODCL1016】というディスクで、1977年7月6日のライヴ。 とてもうるさくて、けっこう聴くのが辛い演奏。 第1楽章は、リズム処理があまくアンサンブルも今一ピシッとせず、特に出来が悪い。 各主題部におけるテンポ設定には意思が通い曖昧さがないのは良いが、まあ、そんなに締めつけなくてもイイんじゃないと言いたくなる。 第2楽章は、だいぶ良い。アンサンブルにも集中力が増した感じだ。 第3楽章はさらに良くなっている。 トリオはダメだ。デリカシー不足。 スケルツォ部分で、なんかピッコロっぽい音が聞こえるような気がするけど、まさかね。 第4楽章はダメだ。聴くのが辛い。 ブルックナーの響を分かってないんじゃないか!? ティンパニの改変:468小節から475小節までリズミックに追加。583小節からは追加と改変。626〜629まではリズムを改変。 2008/3/9 ●529、531。 ●583〜586。583小節からがコラール。 ●588〜590。 ●599。 ●626〜629。 まあ、ほとんどが五月蝿い変更だ)*o*( 2008/2/23 【ARPCD0129】というディスクで、1953年のライヴ録音。 ウィキペディアによると『旧南西ドイツ放送局 Su¨dwestfunk(SWF)』なんだそうだ。 演奏は「第七」と同じ傾向で、悪くはないが音が悪過ぎてダメだ。録音が悪いってこと。埃っぽいというか歪みっぽい音で、鑑賞の妨げになる。 「第七」と同じ傾向ではあるけれど、もっとロスバウトの意思を感じさせるところがマイナスになっている。 時にきかせる内声部分の強調も嫌みではないが、入門者向けに分かり易く演奏しているような気分にさせる。 第1楽章の主部、55小節からのヴィオラとチェロなんかpにも関わらずかなり大きな音で弾き始め、驚く。 ふつうに楽譜通りにやってよ、と感じる部分が「第七」の時より多い。 基本はハース版。 2008/2/28 ドイツグラモフォンの【435 332-2】というディスク。ちゃんと聴くのは10年ぶりくらいだ。 モノラル特有のかための音と休符を端折り気味なのが玉に瑕だが、指揮者とオケが良好な関係にあることがよく分かる名演。響に生命が宿っている。宿っているどころか溢れ返っている。 使用楽譜は原典版だろうが、全楽章を通してテンポ変化や強弱、バランスにはかなりの改変がある。 数箇所ブルックナー的でない部分もあるが、それすらシューリヒトの音楽性として充分愉しめるのだ。 第1楽章や第4楽章では、頻繁なテンポ変化が有り、遅くやって欲しいところをしっかり遅くやってくれるのが嬉しい。 第1楽章・第1主題の動きを伴った遅いテンポは、まるで生物のように蠢き展開部での遅いテンポの伏線となる。 強弱の変更やバランス操作も枚挙に暇がないが、第1楽章・第3主題部の177小節《G》からのffをmfに落としたり、433小節のヴァイオリンの雄弁さや487小節のpのホルンをfで始める思い切りの良さなど、油断も隙もない。 そんな中、第2楽章は最も自然に気持ち良くブルックナーを堪能出来る。 第3楽章は速い。シューリヒトらしい切れ味だ。そのテンポの中に木管のスラー変更(3〜4小節)だとか、2小節単位のデジタル的音量減(31小節〜)、ヘミオラ風リズム部分(79小節〜)の恐ろしいほどの邁進力など、音楽は抉りに抉られる。 一転してトリオはゆっくりだ。 第4楽章は、あまりに変幻自在でとても書き切れない。 なんにしても、理性的に聴いていたのに感動してしまった。 2008/2/29 ARKADIA【CDGI 742.1】というCDで、1962年10月18日のライブ。 基本的にはウィーン盤と同じ解釈だが、印象はずいぶん違う。 ウィーン盤との違いをいくつか挙げておこう。 例えばオケの積極性の違いとして、第1楽章の205〜208小節の弦の刻みなど、ウィーンではテヌートがついているかのようにしっかり弾ききられているが、こちらはいくぶん爽やかだ。 第2楽章の主部では、木管のメロディーにアンサンブルの乱れがあり6つ振りしていることが容易に想像出来る。 第3楽章はダ・カーポしない。つまり、トリオの後、スケルツォ冒頭ではなく再現部に戻りさっさと終わるのだ。初版の影響? それとも編集してある? 33小節と41小節のデジタル的音量減はないから、ここは4ヶ月の間で変化した部分といえそう。 トリオ、125小節の休止は1.5小節分でなく1.0小節分の休止が入る。 第4楽章は第2主題部の遅さが際立つ。イイ感じだ。サラリとした音色も相まって、ウィーン盤よりも素敵。 シュトゥットガルト盤は金管の音圧が低いため、ff部分での弦がしっかり聞こえるというよさがある。そして音色は爽やかだ。一般的イメージとしての「山廃」と「吟醸」の違いみたいなものか。 そして、ウィーン・フィルというのは、やはりかなり自発的に音楽するオケなのだろう。 2008/3/5 1942年10月のライヴ録音。【OS-7089→90-BS】というLPを板起こししたものだ。 演奏は紛れもない、緩急の波が押し寄せるフルトヴェングラーの名演。 例えば、シューリヒトのベートーヴェンを聴き込んだ人でも、あの「第五」を名前を伏せて聴かされたらシューリヒトの演奏とは分かりそうもない。 フルヴェンの特徴としては、まず、テンポの伸び縮みとそれに伴う意味深な“間”、そしておどろおどろしい最弱音がある。 フルヴェンの多くのリタルダンドは、フレーズの終わり間際に大きくかかる。よって、その後の休符はオフ・テンポになり、独特の“間”となる。 大波、小波が寄せては帰る海のような音楽。ブルックナーの音楽からは、あまり海を連想しないが、強いていえば海岸より海のど真ん中、大海原を連想させるのがブルックナーだと思う。 そしてフルヴェンのようなアナログ的テンポ変化は、感情の起伏に則った自然な流れに沿うのでオケも合わせやすく、演奏しやすいと思われる。感情移入した演奏が出来やすいということだ。 最弱音は決して軟弱なものでなく、緊張感に支配された物々しさがあり、“間”と共に意味付けし過ぎるのが、やはりブルックナー的ではない。もっと単純な響だけで良いのだ。 次の特徴は、ティンパニのロールの頭につけるアクセント。 それは、理解しにくい曲を分かり易く演奏している感じがして、場合によっては聴くものをバカにしているんじゃないかとも思える。 次の特徴はヴァイオリンのポルタメント。 そのポルタメントは、第2楽章のB部分、44小節を筆頭に第4楽章の展開部など、あちこちで聴ける。多くはさりげないけど、麗しのポルタメントだ。 そのあとのポルタメントを伴って大きな起伏の表情付けで歌われる様は、気持ち良いには違いないがテンポアップにより想起させるものが限定される。もっと自由を! 第3楽章は良いテンポで始まるのに、すぐに駆け出してしまう。トリオ、125小節の休止は直前でリタルダントするのでカウント不能だ。 第4楽章の序奏、最初の1音は聞き取れない。 前述の通り、展開部でもヴァイオリンのポルタメントが聞けるのが嬉しい。 フルヴェンよ、そんなに急いでどこへ行く? の答えは、コラールで落とされるテンポによる回答が待っているってわけだ。劇的で物語的。相変わらず頭にアクセントをつけたティンパニのロールは鬱陶しいが、そのロールの細かさと音量への細心の注意は並みの演奏ではない。 要するに名演だ。超名演といっても良いかもしれない。 これは、ぼくがブルックナーをちょっと特殊な作曲家だと思っているから、この言い方になる。 楽譜は、スケルツォにフライングヴァイオリンがあるから修正前のハース版だと思う。 2008/3/11 第五、第七、第八、第九の4曲が入ったボックスセット【PHILIPS 464 950-2】のうちの1枚。1959年3月のライヴだ。 柔軟なアゴーギクとディナーミク変化を持つとはいえ、強いラッパの音を前面に押し出した凝集した響が特徴の引き締まった名演だ。 そういう弦だから、もちろんアダージョの響も深みがある。ただ、モノラルのせいもあるだろうが、広がりに乏しいので響に浸る気持ち良さは求めることが出来ない。 第3楽章は良いテンポで、やはり良くも悪くも引き締まった演奏。 楽譜は原典版だが、もちろん手が加えられている。 まずは、ティンパニ。 このティンパニは、スケルツォ《N》のフォルテピアノや、356小節の強力なアクセントがカッコいい! ティンパニ以外では、ラッパに木管パートを吹かせるなんて大技を何気なく聴かせている。 2008/3/18 【ULS-3387〜8-V】というLP。とり出すのは10年ぶり、いや15年ぶり位か? とにかくほとんど記憶に残っていないので、とっても新鮮に聴けた。 まず、響が綺麗。綺麗といっても、表面を磨いてツルツルにしたようなものでなく、柔らかく肌理の細かい手触りといった感じ。機械的正確さでなく丁寧な手造りの音楽といった感じで、荒っぽさがないのが買いだ。 弦も管もティンパニも常に余裕のある響だから、聴いていて実にゆったりと寛げる。ガリガリ弾くことはないが、決して冷たい演奏などではなく内声が疎かにされることもない。 曲を締め上げることもなく煽るようなアッチェレランドもなく、思い入れタップリのロマン派風感情表現もなく、目立ったバランス操作もテンポ変化もない。聞き流すと何もしてない感じなのだ。 第1楽章はゆったりした序奏と、はやめの主部で対比をハッキリさせる。 展開部は、残念ながら《L》からでなく《M》からテンポを落とすが、わざとらしさはない。 第2楽章も良い。 第3楽章も見事に響が整理されている。 第4楽章も、いっそう良い。 弦にはもっとガリガリ弾いて欲しいなんて好みはをいうのは、野暮ってものだろう。木管と弦の美しい饗宴がそこにあり、ケンペの美学を感じる。 586小節からラッパを1オクターブ上げている。615も上げているかもしれない。しかし、ギラギラ吹かせないので、成金趣味のようにはならないところがケンペらしいといえそう。 2008/4/5 【32TC-98】というCDで、1983年9月〜1984年1月録音。 レークナーは、朝比奈隆とともに実演を最も多く聴いた指揮者の一人だ。 演奏スケールは大きいこともあったが、本質は細部まで神経を通わせたしなやかで動的な絞まったものだ。 この五番は、殆ど“レークナーのブルックナー”だ。 第3楽章以外は速いテンポで、一気呵成に聴かせる。 弦や木管もかなり雄弁だ。 第1楽章の第2主題部で131小節からの《a Tempo》は、直前の《ritenuto》を解除するものと思われるが、レークナーは第1主題のテンポのように速め、ちょっと驚く。 セッション録音とはいえ自在感に満ちた演奏で、編集は少ないと思わせる。 楽譜はオタマジャクシ的にはノーヴァク版通り。 2008/4/10 【433 819-2】というDECCAのディスクで、1991年の録音。 数年前、BGM的に“ながら聞き”した時には、良くも悪くもごく普通の演奏だと感じていた。 しかし、ちゃんと聴くと細部まで神経の通った、けっこうこだわりのある演奏だということが分かる。 先ず、テンポに余計な操作がないのがイイ。必要最低限のルバートしかないので響に集中出来る。 金管が大き過ぎる欠点があるとはいえ、アクセントには細心の注意が払われているので、決して暴力的には鳴らない。響の重心が安定しているので、それなりの法悦があるのも事実だ。 全楽章を通し安心して聴けるわけだが、第1楽章の聴き所の一つ、展開部《L》からなどなかなか良い。ほんの少し金管を抑え、第2ヴァイオリンとヴィオラが頑張れば文句なしだし、《M》からはクラリネットが聴こえるのが嬉しい。 第2楽章では、手前(23小節〜)で少し駆け出してしまうとはいえ、副次部の響は期待通りの幸せをくれる。 A3部分(《H》以降)のクライマックス部分では、“大きめ”の金管が決して粗野にならない強い響きの魅力を堪能させる。 第3楽章は、スケルツォもトリオも響の交錯が美しく素晴らしい。欠点は上品過ぎか? トリオの125小節の休止は、124小節で微かにリタルダンドするためフェルマータ的に長く取られている。オフ・テンポになり拍が無くなるってことだ。 第4楽章は、主部のアレグロ・モデラートに入ってからが特に聴きものだ。 展開部前のコラールが決して喚かず荘厳にやや遠くから響くところなんか、天国への扉が開くイメージすら思い浮かべる。 624小節からのフルートが、はっきり聞こえるでもなく、な〜んとなく響いているのも凄いと思う。 |