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ブルックナー:交響曲第五番 変ロ長調 試聴記録

朝比奈隆指揮 1970年代の演奏
アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴァント指揮 ケルン放送交響楽団
ケーゲル指揮 ライプツィヒ放送交響楽団
ケンペ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
シャイー指揮 ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団
シューリヒト指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
シューリヒト指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団
チェリビダッケ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
ハーディング指揮 スウェーデン放送交響楽団
フルトヴェングラー指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベイヌム指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
ベーム指揮 ザクセン国立管弦楽団
ボッシュ指揮 アーヘン交響楽団
ボルトン指揮 ザルツブルク・モーツァルテウム・オーケストラ
マタチッチ指揮 フランス国立管弦楽団
ヤノフスキ指揮 NHK交響楽団
ヤルヴィ(パーヴォ)指揮 NHK交響楽団
レークナー指揮 ベルリン放送管弦楽団
レークナー指揮 ベルリン放送管弦楽団(ライヴ)
ロスバウト指揮 南西ドイツ放送交響楽団

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2005/8/4
クラウディオ・アバド指揮ヴィーンフィルハーモニー管弦楽団

テンポ変化の多い動的な演奏。
第1楽章はそのテンポの動きが鬱陶しく、継ぎはぎの感じもして今一だ。
ところがフィナーレはなかなか良い。それまでと違って硬質の響になりやや粗さもあるくらいだが、強い意志に貫かれている。アレグロの低弦の入りの凄いこと!
中間の2つの楽章は、まあ普通に美しい。

スケルツォ181小節のホルンはクラやヴィオラのように吹いているのかな?

第1楽章終結、507のトランペットがオクターヴあげるのは前にも聞いたことあるような気がするが、あまり好きでない。その前の一度音量を落とすのも、レークナーみたいには決まらない。

フィナーレ573小節から、3番トランペットが聞こえないのはどうしたことだろう?
624小節からのバランス操作によってフルートを浮かびあげるのも余計なこっちゃ。そんなことよりももっと弦をガリガリ弾かせい!

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2006/5/20
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮フランス国立管弦楽団

この演奏との出会いは20年以上前のFM放送でのものだ。
ツートラサンパチとはいかなかったが、テアックのオープンデッキを友人の家に持ち込んで録音したのを覚えている。25キロもあるデッキをわざわざ持ち込んだのだ。ご苦労さんなこった。
その友人の家では、FMを有線で受信出来るので雑音が入らないということだった。
にもかかわらず、今一の音だった記憶がある。若い時は無駄な労力を一杯使ったものだな〜(-_-;)

そのデッキもとっくに鬼籍に入り、この演奏との再会は海賊版レーベルからのCDだった。紫色のジャケットのMETEOR MCD-060だ。録音データなど何も書いてないが、マタチッチ独自の楽譜の変更やミスの位置、雑音の位置などから間違いなく同じ演奏だと分かる。
「ハッキリとものを言う随所で音が粒立ったマタチッチらしい名演」といえるこの演奏だが、MCD-060はヒスノイズが大きかった。

今度の正規盤は、その点ずいぶん良い。
熱い演奏なのに、いかにもフランスのオケらしいクリスタルのような硬めの音色が、音楽を構築していく様を見事に表現していてブルックナーらしい。基本的に上手いオケが本気で演奏してくれるというのは、それだけで素晴らしい音楽が出来るということなのだ。

アダージョの待望の副次部はちょっと不自然なくらい大きく感じたMCD-060だったが、今度の正規盤も大きな音だ。強さに硬さが加わった、陶酔とは違うこの響きこそこのコンビの特徴が集約された部分かもしれない。

あちこちから初版風の変更が聞こえてくるが、アダージョの最後はフルートのみ初版なのか?
フィナーレ・コーダのラッパのオクターブ上げってのはどうなんだろう。カッコイイけど、初版なのかマタッチ編なのか分からない。

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2006/6/6
ギュンター・ヴァント指揮ケルン放送交響楽団
(LP)
10年以上聴いてなかったかな。

ただ、たぶん、ぼくのヴァントの演奏の根本的イメージは、このケルン放送響とのブルックナーだと思う。
2枚組のこのLP、あまり聴いてなかったようでとても美しい。カビも1ヶ所だけだった(^_^;)

第1楽章冒頭はいつ始まったのか分からないほど小さな音だ。金管のファンファーレ部分は、休符の端折り具合がそれほど大きくない。というか、もしテンポ変化させているとしたら、その変化の具合は少ない。
それよりも、その強烈な音響に参ってしまう。

これこれ、これが良くも悪くもぼくのヴァントのイメージだったっけ。
ラッパ中心の猛烈な強奏だ。
金管や弦を抑えて木管を浮かび上がらせるというバランス操作もあるが、この強烈な響きの印象が強くあまり何回も取り出したいとは思わないレコードだということだ。

それにしても、第2楽章や第4楽章の冒頭はちゃんと聞こえるのに、どうして第1楽章の冒頭だけあんなに小さな音なんだろう?

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2006/6/27
アイヴォァ・ボルトン指揮ザルツブルク・モーツァルテウム・オーケストラ

友人H君が持ってきたCDジャケットを見てビックリした。
ニタ〜っと笑ったちょっと腑抜けな感じだけど優しそうな掛布の写真が・・・!?
掛布って、あの元タイガースのカケフのことだ。んな、バカな!

よく見たら、IVOR BOLTONという指揮者だった。
それにしても口元といい、目尻のシワといい、垂れた目といい、よく似ている。
オケはザルツブルク・モーツァルテウム・オーケストラだが、この掛布似の指揮者の名はなんと読むんだろう。
後ろはボルトンだろうが、前はアイヴァー、アイヴォァ、イヴォール、イヴォアー、・・・?

とりあえずアイヴォァ・ボルトンにしておこう(^_^;)

で、聞いてみた。なかなかイイじゃん!
ややスケールが小さいけど整理された響きが生きていて、愉しい。従来の演奏と古楽器奏法的な演奏との中間みたいな感じもする。
たぶん、オケの編成が小さいのだろうが室内楽的なアンサンブルの愉しさが聞けるし、音圧に押しつけがましさが皆無なので音量を上げて聞いてもうるさくならない。
気軽に楽しめる軽めのブルックナーだ。
ティーレマンの演奏よりも好きだな、これは。

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2006/7/20
マルクス・ボッシュ指揮アーヘン交響楽団
<2005.5.16.聖ニコラウス教会>の演奏で第1、第2楽章を聴いた。ノーヴァク版の筈・・・(^_^;)

教会の残響をタップリ取り入れてあるわりにはクリアな録音で、なかなか美しい演奏だった。
でも弦が弱くて今一愉しめない。特筆するような小技もないし、大技もない。軟弱な演奏といっていいかもしれない。

面白かったのは第1楽章15小節、最初のフォルティッシモが別の音が入った和音のように響くことだ。よく聴けばちゃんと楽譜通りのオクターヴユニゾンなのに、一瞬なにか違う音が入っているかのような錯覚に陥った。
う〜ん、なんでかな(^^?

展開部に入って最初のフォルティッシモ(241小節)では16分音符でクラリネットばかり目立って面白い。

第1楽章もそうだったけど、第2楽章も音が小さ過ぎていつ始まったのか分からないくらいだ。こればっかりは演奏をその場で聴かねばダメだ。ライヴ録音の欠点とも言えそう。

複リズムの不安定さを経て到達する待望の弦楽合奏(副次部《B》)が今一なのも食い足りない。ヴィオラ、チェロ、バスが音を保たないので充実感に乏しいのだ。つまり2拍ごとに軽くアクセントがついて音が抜ける感じになり、やや鬱陶しい。

で、この楽章の終結は、何?

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2007/4/27
ダニエル・ハーディング指揮スウェーデン放送交響楽団

昨夜FMから録音して、早速CD化したものをチョロッと聞いた。2007年1月26日の演奏。
残念、録音状態最悪だ。ずっとチリチリいってる。

演奏は予想通りというか、今まで聴いてきたハーディングの個性をそのまま生かした名演。
理想的なブルックナーとは言えないが、ハーディングという才気走った指揮者の素敵なブルックナーが聴けるという意味で、傑出した演奏だ。

全くゴチャつかない響きと颯爽としたフレージングは、人間的なドラマを皆無にした生命の根源的な力を感じさせ、それが実に気分イイ。
減衰させる響きを中心に、粘りを感じさせないルバートや独自の表情付けが、生物のように飛び出してくる。

フィナーレ・展開部後半から(M〜Pの手前)のクラスター手法的な部分の処理など素晴らしいもので、生命誕生前のエネルギーが宇宙を飛び交うような錯覚すら覚える。

宇宙といえば、第1楽章・展開部のLからNあたりも宇宙エネルギーを感じさせる大好きな部分(シューベルトの最後の弦四に通じる)だが、ここは今一平凡だったのが惜しい。

アダージョ待望の副次部の奏法も『あり』とはいえ肩透かしを喰う人が多いのではなかろうか。恍惚や陶酔は皆無だもの。

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2007/6/19
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団。

1986年の東京ライヴ。10月22日のサントリーホールでの演奏だ。
直前に録音拒否されたが、記録としてとって置いたものが日の目を見たということらしい。

実はこの日、この演奏を会場で聴いた。
その一週間くらい前のブラームスの4番も聴いた。

この『第五』で印象に残っているのは、恐ろしく遅いアダージョだ。
広さ、深さ、豊かさはブラ4の第2楽章でも感じることが出来、蕭条とした透明感のある深い響きは、森の中の静謐な湖を思わせたっけ。
フィトンチッドに満ちた森は癒しの効果があるのだが、この演奏にはピンと張りつめた緊張感も漲っていた。

そう、副次部ホルンのピアニッシモのきざみは、その張り裂けそうなくらいの緊張感に息を飲んだっけ。

流石に録音からはそういった空気感は伝わってこない。これもチェリが録音を否定した理由の1つだろうな。
でも、そのあまりに遅いテンポを完璧にものにした演奏家達による複リズムは、ブルックナーの音楽の計算された深みを十二分に実感させる。

素晴らしいディスクだ。

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2008/2/15
カール・ベーム指揮ザクセン国立管弦楽団

1936年録音。件のサイトのmp3。
これ、本当に1936年の録音か、というくらいの充分鑑賞に堪え得る音だ。

曲とがっぷり四つに組んだような、直球勝負のような潔い演奏だ。
各楽器をしっかり鳴らしきり、微妙な変化はあるものの基本テンポを動かさず、全く奇を衒ったところがない。

とにかく弦をしっかり鳴らすところは、感動的。なにせ弦楽五部が、けっこうしっかり聞こえてくるのだから大したものだ。
ピアニッシモにも力があり、響を実感出来るのが嬉しい。
とても1936年の録音とは信じられないくらいクリアな音。

第1楽章やフィナーレの展開部ですら、響がダマになってない。特に後者は、聴いていてワクワクしてくるくらい、響の交錯が生きている。

アダージョ・主部ではヴァイオリンの6連符部分では微笑ましい程度の駆け出しだし、続く副次部の主題はやや意思の力が強過ぎる嫌いはあるが、その決然とした響には深い愛が感じられる。

第3楽章もよく引き締まった堅固な演奏。多少ベートーヴェンっぽいといえそうだが、細部までしっかり弾かれた音達は生き生きしている。

第1楽章の主部もだが、フィナーレの主部もテンポが良い。
やや遅めのアレグロ、確かにAllegro moderatoといえるだろう。
再現部と、再現前の一息ついてものを言う部分(350小節)で気持ちテンポを落とすのも頷けるし、前述の通り弦がしっかり弾いているのが大きな魅力。
コーダでは、567小節と571小節のホルンがスラー無しと有りの違いを吹き分けているが、もう少し強く入っていればって感じだ。

その後、流石にファゴットは聞こえないがなかなかの情報量。最後は何の思い入れも無くあっさり終わる。
いくら音が良いとはいえ1936年の録音、ニュアンス不足は仕方がない。これが、最新のステレオ録音だったらさぞや素晴らしかろう。

ほぼハース版通りだが、第3楽章のみ違いがある。
スケルツォ再現部のヴァイオリンとヴィオラだ。258小節と260小節。
258小節で、フライング的に次のフレーズを弾きはじめるってこと。

ハース版の出版は1935年ということだから、最新版による意欲的な演奏だったということだろうか。

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2008/2/21
ヘルベルト・ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団

【ODCL1016】というディスクで、1977年7月6日のライヴ。

とてもうるさくて、けっこう聴くのが辛い演奏。
あっちで吹いてよって言いたくなる。

第1楽章は、リズム処理があまくアンサンブルも今一ピシッとせず、特に出来が悪い。
良く言えば一気にささっと流した即興風演奏といえなくもないが、とにかくラッパとトロンボーンがうるさい。神経質なところのない豪快な演奏といえばそれまでだが、強くて大き過ぎる。
ラッパなんぞビブラートがかかったりもする。東ドイツのオケなのに。

各主題部におけるテンポ設定には意思が通い曖昧さがないのは良いが、まあ、そんなに締めつけなくてもイイんじゃないと言いたくなる。

第2楽章は、だいぶ良い。アンサンブルにも集中力が増した感じだ。
多くの演奏同様23小節からテンポが転がるのは頂けないが、その後の副次部の主題は余計な力みもなくまあまあの響。しかし、ラッパとトロンボーンは、やはりうるさい。

第3楽章はさらに良くなっている。
相変わらずラッパとトロンボーンの強奏は猛烈だが、スケルツォのリズムを抉るのに役立っている。まるで、マーラーにおけるショルティのボディブローを思い起こすくらいスッキリだ。
これって、開き直り的聴き方か?
弦もアクセントの利かせ方がツボにハマっていて、この曲の不思議なリズム感覚のおもしろさが浮き立つ部分もある。
あまりブルックナー的ではないけど、355小節3拍目のティンパニの追加は強烈!

トリオはダメだ。デリカシー不足。
pppまでちゃんと響かせるのは悪くないが、全体的に大き過ぎで、しかもニュアンスの変化に乏しいのが大弱点。“寂しさ”など皆無。

スケルツォ部分で、なんかピッコロっぽい音が聞こえるような気がするけど、まさかね。

第4楽章はダメだ。聴くのが辛い。
とにかくうるさい。あっちで吹いてよ-!!

ブルックナーの響を分かってないんじゃないか!?
トリオと同じで、弱音部の表情の変化など全くなく単調。響の法悦など皆無で暴力あるのみ。
再現部の第3主題部以降にあるティンパニの改変も、ブルックナーを分かっていないことの裏付けになりそうな感じがする。
最後はティンパニを改変して“ケーゲル的”に終わる。

ティンパニの改変:468小節から475小節までリズミックに追加。583小節からは追加と改変。626〜629まではリズムを改変。
基本はハース版だ。

2008/3/9
ケーゲルの「五番」の第4楽章後半のティンパニの変更についてのメモ。

●529、531。
ホルンと同じリズムで追加。

●583〜586。583小節からがコラール。
4分音符、4分音符、4分休符、付点8分音符と16分音符、というリズムを3小節やって4分音符。
つまり「タンタン、タッタ|タンタン、タッタ|タンタン、タッタ|タン」。
音程は《B》《Es↑》《B》《Es↑》。

●588〜590。
4分音符、4分音符、4分休符、付点8分音符と16分音符、というリズムを3小節。

●599。
1拍目に一発《A》。

●626〜629。
テーマ通りにリズムをなぞる。
「タンタッタ|ダ〜〜〜〜」となる629の「タンタッタ」だけFの音に下がる。

まあ、ほとんどが五月蝿い変更だ)*o*(

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2008/2/23
ハンス・ロスバウト指揮南西ドイツ放送交響楽団

【ARPCD0129】というディスクで、1953年のライヴ録音。
オケの表記は「SWF SYMPHONY ORCHESTRA」となっている。
ドイツ語では「SINFONIE ORCHESTER DES SUDWESTFUNK BADEN-BADEN」。

ウィキペディアによると『旧南西ドイツ放送局 Su¨dwestfunk(SWF)』なんだそうだ。
ドイツの放送オケは複雑で分かりにくい。

演奏は「第七」と同じ傾向で、悪くはないが音が悪過ぎてダメだ。録音が悪いってこと。埃っぽいというか歪みっぽい音で、鑑賞の妨げになる。

「第七」と同じ傾向ではあるけれど、もっとロスバウトの意思を感じさせるところがマイナスになっている。
弱音部分が大きめなのはケーゲルのような無神経さと違って悪くはないが、疑問な箇所もいくつかある。
そのくせff部分での延ばしがしっかり保てず減衰するのは、軟弱だ。

時にきかせる内声部分の強調も嫌みではないが、入門者向けに分かり易く演奏しているような気分にさせる。
まあ、弦中心でけっこうすみずみまでしっかり弾かれているのだが、如何せんその良さが伝わりにくい録音なのが致命傷だ。

第1楽章の主部、55小節からのヴィオラとチェロなんかpにも関わらずかなり大きな音で弾き始め、驚く。
また、第2主題部のヴァイオリンのピツィカートは楽譜と違うように聞こえる。つまり、104小節の1拍目が実音「G」でなく「F」のようだ。

ふつうに楽譜通りにやってよ、と感じる部分が「第七」の時より多い。
もっと細かく書こうと思ったけど、録音のせいで聴いていて愉しくないのでやめた)*o*(

基本はハース版。

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2008/2/28
カール・シューリヒト指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

ドイツグラモフォンの【435 332-2】というディスク。ちゃんと聴くのは10年ぶりくらいだ。
1963年2月24日のライヴ録音で、残念ながらモノラル。

モノラル特有のかための音と休符を端折り気味なのが玉に瑕だが、指揮者とオケが良好な関係にあることがよく分かる名演。響に生命が宿っている。宿っているどころか溢れ返っている。

使用楽譜は原典版だろうが、全楽章を通してテンポ変化や強弱、バランスにはかなりの改変がある。
シューリヒト独自のものか初版からの影響かは分からないが(第1楽章・展開部に入ったところ、236小節のホルンを長く延ばすのは初版からだろう)、その全てが吹っ切れた表現となっていて説得力がある。
聴いていて曖昧なところのない気持ち良さ。

数箇所ブルックナー的でない部分もあるが、それすらシューリヒトの音楽性として充分愉しめるのだ。
前述の通り、テンポ設定やバランス操作に個性があり、決して純正ブルックナーではないかもしれない。しかし、これは紛れもないブルックナー。ウィーン・フィルが本気で弾いた「シューリヒトのブルックナー」ゆえの愉しさ、感動が味わえるのだ。
当時の“本気の”ウィーン・フィルは、米の旨みが十分にのった純米古酒のような味わいがある。分厚くコクのある管と、あのしなやかなポルタメントだけでなく、強靱でガリガリ唸る弦!

第1楽章や第4楽章では、頻繁なテンポ変化が有り、遅くやって欲しいところをしっかり遅くやってくれるのが嬉しい。

第1楽章・第1主題の動きを伴った遅いテンポは、まるで生物のように蠢き展開部での遅いテンポの伏線となる。
《L》以降、特に《M》からは生命エネルギーが宇宙空間を飛び交うのを観るような錯綜する音楽だが、柔軟に力強く意味深く響かせるところは流石といえる。
その後、323小節と329小節の突然のアップテンポは切れが良く、コクのあるものを食べた後の口直し的な感覚があるが、あまりブルックナー的ではない。

強弱の変更やバランス操作も枚挙に暇がないが、第1楽章・第3主題部の177小節《G》からのffをmfに落としたり、433小節のヴァイオリンの雄弁さや487小節のpのホルンをfで始める思い切りの良さなど、油断も隙もない。
再現部手前で数え間違うティンパニは、ウィーンフィル得意のご愛嬌だ(-_-;)

そんな中、第2楽章は最も自然に気持ち良くブルックナーを堪能出来る。

第3楽章は速い。シューリヒトらしい切れ味だ。そのテンポの中に木管のスラー変更(3〜4小節)だとか、2小節単位のデジタル的音量減(31小節〜)、ヘミオラ風リズム部分(79小節〜)の恐ろしいほどの邁進力など、音楽は抉りに抉られる。
スケルツォ終結のアッチェレランドは気違いじみている。フルヴェン!?

一転してトリオはゆっくりだ。
《D》にゲネラルパウゼを入れ、125小節の休止にさらに1.5小節分の休止が入る。これは126小節がアウフタクトのように始まり面白い効果になる。

第4楽章は、あまりに変幻自在でとても書き切れない。
がくっとテンポが落とされる506小節からなど、退廃的な雰囲気すら漂い、それが凄みになっている。良くも悪くも「シューリヒトのブルックナー」。
最後は金管がうるさいけど、本当の強さを実感させ虚仮威しのところは微塵もない。

なんにしても、理性的に聴いていたのに感動してしまった。
ケーゲルやロスバウトとは次元が違う演奏といっていいだろう。

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2008/2/29
カール・シューリヒト指揮シュトゥットガルト放送交響楽団

ARKADIA【CDGI 742.1】というCDで、1962年10月18日のライブ。
ウィーン・フィルとの名演の4ヶ月くらい前のもの。
モノラル録音で、ウィーン・フィルとのものより少し古くさく感じるが、鑑賞には耐え得る音質だ。

基本的にはウィーン盤と同じ解釈だが、印象はずいぶん違う。
それはオケの音色や基本奏法の違い、そしてシューリヒトがどこまで吹っ切って指揮しているかの違いだと思われる。

ウィーン盤との違いをいくつか挙げておこう。

例えばオケの積極性の違いとして、第1楽章の205〜208小節の弦の刻みなど、ウィーンではテヌートがついているかのようにしっかり弾ききられているが、こちらはいくぶん爽やかだ。
487小節のホルンも特別大きく吹かないから、ここはウィーン・フィルの団員の即興かもしれない。

第2楽章の主部では、木管のメロディーにアンサンブルの乱れがあり6つ振りしていることが容易に想像出来る。

第3楽章はダ・カーポしない。つまり、トリオの後、スケルツォ冒頭ではなく再現部に戻りさっさと終わるのだ。初版の影響? それとも編集してある?

33小節と41小節のデジタル的音量減はないから、ここは4ヶ月の間で変化した部分といえそう。

トリオ、125小節の休止は1.5小節分でなく1.0小節分の休止が入る。
この変化は興味深い。メトリークがらみの問題か?

第4楽章は第2主題部の遅さが際立つ。イイ感じだ。サラリとした音色も相まって、ウィーン盤よりも素敵。
432小節の3番ホルンはよく聞こえる。

シュトゥットガルト盤は金管の音圧が低いため、ff部分での弦がしっかり聞こえるというよさがある。そして音色は爽やかだ。一般的イメージとしての「山廃」と「吟醸」の違いみたいなものか。

そして、ウィーン・フィルというのは、やはりかなり自発的に音楽するオケなのだろう。
指揮者の解釈を守りながらも自分流に再解釈して提出するって感じだ。これがツボにハマれば凄絶な超名演が生まれるってことだ。

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2008/3/5
ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1942年10月のライヴ録音。【OS-7089→90-BS】というLPを板起こししたものだ。
この年代にしては充分聞ける音だが、大音量の時に歪みっぽくなるのは仕方ないか。

演奏は紛れもない、緩急の波が押し寄せるフルトヴェングラーの名演。
しかし、テンポの変化が激しいといっても、シューリヒトの演奏とは全く次元の違うものなのだ。

例えば、シューリヒトのベートーヴェンを聴き込んだ人でも、あの「第五」を名前を伏せて聴かされたらシューリヒトの演奏とは分かりそうもない。
しかし、フルヴェンのベートーヴェンを聴き込んだ人なら、この「第五」がすぐにフルヴェンの演奏だと簡単に分かるだろう。
「シューリヒトのブルックナー」と「フルトヴェングラーのブルックナー」には、意味に違いがある。

フルヴェンの特徴としては、まず、テンポの伸び縮みとそれに伴う意味深な“間”、そしておどろおどろしい最弱音がある。
テンポの変化は凄くアナログ的で、アッチェレランドは曲を縛り上げるようだ。容赦なし。
シューリヒトのテンポ変化はデジタル的で、感情というものを想起させないし、曲をいじめることもない。それだけにスケルツォの終結だけは、フルヴェンよりフルトヴェングラー的といえる。

フルヴェンの多くのリタルダンドは、フレーズの終わり間際に大きくかかる。よって、その後の休符はオフ・テンポになり、独特の“間”となる。
これは、ブルックナーでは多用すべきワザではないと思うのだ。基本的には、休符のあいだも拍をカウントして流れて欲しい。

大波、小波が寄せては帰る海のような音楽。ブルックナーの音楽からは、あまり海を連想しないが、強いていえば海岸より海のど真ん中、大海原を連想させるのがブルックナーだと思う。

そしてフルヴェンのようなアナログ的テンポ変化は、感情の起伏に則った自然な流れに沿うのでオケも合わせやすく、演奏しやすいと思われる。感情移入した演奏が出来やすいということだ。

最弱音は決して軟弱なものでなく、緊張感に支配された物々しさがあり、“間”と共に意味付けし過ぎるのが、やはりブルックナー的ではない。もっと単純な響だけで良いのだ。

次の特徴は、ティンパニのロールの頭につけるアクセント。
曲の隈取りに役立つとはいえ、こう頻繁にこの技を使われると逆にうるさい。
そのティンパニのロールは、ディミヌエンド・クレッシェンドなども多用されるが、如何にもロマン派っぽく聞こえる。

それは、理解しにくい曲を分かり易く演奏している感じがして、場合によっては聴くものをバカにしているんじゃないかとも思える。
これらの小技は、ここぞというところで、1〜2回だけ使うべき技といえる。

次の特徴はヴァイオリンのポルタメント。
これはフルヴェンの指示かどうかは分からない。当時のベルリンフィルの演奏スタイルかもしれない。
もちろんなくても良いし、ブルックナーの音楽にはない方が正しいと思われるが、ぼくは好きだ。
ウィーン・フィルのポルタメントは鞭が撓うような強さがあるが、ベルリン・フィルのポルタメントには優しい甘さがある。

そのポルタメントは、第2楽章のB部分、44小節を筆頭に第4楽章の展開部など、あちこちで聴ける。多くはさりげないけど、麗しのポルタメントだ。
この副次部は、タップリの休符の後、暈し気味に柔らかく歌われる副主題が素敵だが、スビトピアノの前の8分音符(38小節)を自然に小さくする処理の仕方に、フルヴェンの美学を感じる。しかし、その美しさこそブルックナー的でないのだ。

そのあとのポルタメントを伴って大きな起伏の表情付けで歌われる様は、気持ち良いには違いないがテンポアップにより想起させるものが限定される。もっと自由を!
97小節からの猛烈なクレッシェンドを伴ったアッチェレランドは、フルヴェンの面目躍如。
緊張と弛緩の交替が頻繁にあり過ぎて疲れるのも事実だ。曲の締めつけが多過ぎ。

第3楽章は良いテンポで始まるのに、すぐに駆け出してしまう。トリオ、125小節の休止は直前でリタルダントするのでカウント不能だ。

第4楽章の序奏、最初の1音は聞き取れない。
第2主題は遅いテンポで、とてもデリケート。
突然速くなるだろうと思った第3主題は、ゆっくり入る。しかし、徐々に加速してしまう。尤も、再現部では第1主題共々最初から速い。
堂々たるコラールにつづく展開部への導入部分の弦の動きや歌い方は、実に劇的だ。

前述の通り、展開部でもヴァイオリンのポルタメントが聞けるのが嬉しい。
アッチェレランドにつぐアッチェレランドは、冷静であろうとする曲の本質を絞り上げていじめ抜く。
それでも駄演にならないのは、メロディ中心主義に陥らない立体的な響の創造にある。各パートの生きていること! 432小節の3番ホルンも、程よく聞こえる良いバランスじゃないか。

フルヴェンよ、そんなに急いでどこへ行く? の答えは、コラールで落とされるテンポによる回答が待っているってわけだ。劇的で物語的。相変わらず頭にアクセントをつけたティンパニのロールは鬱陶しいが、そのロールの細かさと音量への細心の注意は並みの演奏ではない。

要するに名演だ。超名演といっても良いかもしれない。
しかし、だからこそ、ブルックナー的ではない。

これは、ぼくがブルックナーをちょっと特殊な作曲家だと思っているから、この言い方になる。
しかし、ブルックナーを数あるロマン派の作曲家のうちの単なる1人と感じている人にとっては、最高のブルックナー演奏ということになるのではなかろうか?

楽譜は、スケルツォにフライングヴァイオリンがあるから修正前のハース版だと思う。
気がついた音符の変更は第1楽章と第3楽章のティンパニにある。
第1楽章は489あたりからロールが追加される。第3楽章では、355小節をロールで埋めている?

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2008/3/11
エドゥアルト・ヴァン・ベイヌム指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

第五、第七、第八、第九の4曲が入ったボックスセット【PHILIPS 464 950-2】のうちの1枚。1959年3月のライヴだ。

柔軟なアゴーギクとディナーミク変化を持つとはいえ、強いラッパの音を前面に押し出した凝集した響が特徴の引き締まった名演だ。
ラッパの音は強いけど良い音だから、ちょっとうるさいだけで許せる。好みではないけど。
とにかく弦がしっかり弾いているところが素晴らしい。フィナーレの展開部はなかなかの聴きものだ。
《Z》からの刻みもかなり頑張っている。606小節のヴァイオリンとヴィオラの刻みだって、クナほどじゃないけどなかなかのものだ。
そうそう、フィナーレ・432小節からの3番ホルンはよく聞こえる。

そういう弦だから、もちろんアダージョの響も深みがある。ただ、モノラルのせいもあるだろうが、広がりに乏しいので響に浸る気持ち良さは求めることが出来ない。

第3楽章は良いテンポで、やはり良くも悪くも引き締まった演奏。
フルヴェンのように感情的ともいえるアゴーギクを特徴としないので、押しつけがましさはない。しかし、引き締まった演奏が良いとは限らないのが、ブルックナー演奏の難しさといえるかもしれない。

楽譜は原典版だが、もちろん手が加えられている。

まずは、ティンパニ。
第1楽章205小節から4小節間ロールで追加。・・・してると思う。
クレッシェンド、ディミヌエンドなどの楽譜にない表情付けが随所にあるが、終結のクレッシェンドはスケールが大きくなっていい感じ。つまり、第1楽章でいえば、505からクレッシェンドして507から最後までフォルティッシモになるというものだ。

このティンパニは、スケルツォ《N》のフォルテピアノや、356小節の強力なアクセントがカッコいい!
スケルツォは、38小節や282小節でチェロ・バスがクレッシェンドするのも印象的。

ティンパニ以外では、ラッパに木管パートを吹かせるなんて大技を何気なく聴かせている。
第1楽章の303小節(M)〜310小節だ。クラリネットやオーボエのパートを吹かせているように聞こえる。木管っぽく吹かせるので、なかなかイイ感じだ。

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2008/3/18
ルドルフ・ケンペ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

【ULS-3387〜8-V】というLP。とり出すのは10年ぶり、いや15年ぶり位か? 

とにかくほとんど記憶に残っていないので、とっても新鮮に聴けた。
そして、これはオーソドックスなブルックナーらしい名演といえるんじゃなかろうか、と思った。

まず、響が綺麗。綺麗といっても、表面を磨いてツルツルにしたようなものでなく、柔らかく肌理の細かい手触りといった感じ。機械的正確さでなく丁寧な手造りの音楽といった感じで、荒っぽさがないのが買いだ。

弦も管もティンパニも常に余裕のある響だから、聴いていて実にゆったりと寛げる。ガリガリ弾くことはないが、決して冷たい演奏などではなく内声が疎かにされることもない。
弦と木管に重きを置いた融合しない響の交錯が、なんのわざとらしさも感じさせずに聴くものを包み込む。
ヴァイオリン対向配置もちゃんと生きている。

曲を締め上げることもなく煽るようなアッチェレランドもなく、思い入れタップリのロマン派風感情表現もなく、目立ったバランス操作もテンポ変化もない。聞き流すと何もしてない感じなのだ。
しかしよく聴くと、入念なバランス操作が施されていて、決して喚くことなく入念に響かせていることが分かる。手造りじゃん!

第1楽章はゆったりした序奏と、はやめの主部で対比をハッキリさせる。
21〜22小節の休符の端折りは残念。
7〜9小節のアクセントは、膨らみのあるものでなく本当にアクセントだ。アクセントといえば木管のアクセントが随所で光っている。

展開部は、残念ながら《L》からでなく《M》からテンポを落とすが、わざとらしさはない。
で、この《L》からはかなり良いバランスだ。ほんのちょっとの脳内補助で、宇宙エネルギーが飛び交うさまを思い描くことが出来る。かなり上出来だ。

第2楽章も良い。
23小節からの駆け出しはまあ許せる程度だ。
待望の副次部の主題は、柔らかく深く、強い響がグゥ〜!(エドはるみではない)
その後の弦は一切思わせぶりな表現を付けないが、真摯な響で音楽を立体的に紡いでいく。金管が入っても決して煩くならない。

第3楽章も見事に響が整理されている。

第4楽章も、いっそう良い。
各パートが、漲る生命力を持った植物のような「静的な力」を持っている。
展開部など、金管は抑えられたままだ。しかし、クッキリきっちり吹かせるため軟弱なところもない。

弦にはもっとガリガリ弾いて欲しいなんて好みはをいうのは、野暮ってものだろう。木管と弦の美しい饗宴がそこにあり、ケンペの美学を感じる。
金管が最強奏を聴かせるのはやっと《Z》からだが、もちろん決して喚かない。このうるさくない迫力も立派なものだ。

586小節からラッパを1オクターブ上げている。615も上げているかもしれない。しかし、ギラギラ吹かせないので、成金趣味のようにはならないところがケンペらしいといえそう。

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2008/4/5
ハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送管弦楽団

【32TC-98】というCDで、1983年9月〜1984年1月録音。
裏にはハインツ・レグナーと表記してある(>_<)

レークナーは、朝比奈隆とともに実演を最も多く聴いた指揮者の一人だ。
音楽造りの基礎力の高さと、小技のセンスが僕の感性にピッタリ合う、大好きな指揮者なのだ。

演奏スケールは大きいこともあったが、本質は細部まで神経を通わせたしなやかで動的な絞まったものだ。
そこには純音楽的に結晶化したような響の美しさと、《レークナー・クレッシェンド》を筆頭とする独特の表現が小技として光っていて、聴くものを飽きさせない。

この五番は、殆ど“レークナーのブルックナー”だ。
良い演奏だけど、理想のブルックナーの第五からは遠い、といえそう。

第3楽章以外は速いテンポで、一気呵成に聴かせる。
切れ味の鋭い金管のアクセントは、一気に音栓を開いたオルガンよりもオルガン的なくらいだが、音のしまい方までしっかり揃っているところは流石といえる。

弦や木管もかなり雄弁だ。
金管の音量が大き過ぎるとはいえ、柔軟な強靱さを持った弦が時にゴリゴリいわせる第4楽章は特に感動的。
スケールは大きくないが、生命エネルギーに満ち溢れた有機的純音楽が、そこにある。

第1楽章の第2主題部で131小節からの《a Tempo》は、直前の《ritenuto》を解除するものと思われるが、レークナーは第1主題のテンポのように速め、ちょっと驚く。

セッション録音とはいえ自在感に満ちた演奏で、編集は少ないと思わせる。
第1楽章再現部の第2主題のところ(413小節)ではミストーンが聞こえるし、展開部《N》からのリズム強奏部分ではブレスの為かラッパが一瞬抜け落ちる。

楽譜はオタマジャクシ的にはノーヴァク版通り。

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2008/4/10
リッカルド・シャイー指揮ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団

【433 819-2】というDECCAのディスクで、1991年の録音。

数年前、BGM的に“ながら聞き”した時には、良くも悪くもごく普通の演奏だと感じていた。
一般的な演奏にありがちな金管が大き過ぎるという欠点を持った、やや明るめの音色で気持ち良く響かせる“普通の演奏”という印象だったってわけだ。

しかし、ちゃんと聴くと細部まで神経の通った、けっこうこだわりのある演奏だということが分かる。

先ず、テンポに余計な操作がないのがイイ。必要最低限のルバートしかないので響に集中出来る。
これはブルックナーの音楽にとって、けっこう重要なことだ。尤も、“退屈”とは裏腹になるので鈍感な指揮者だと最悪の結果になる。

金管が大き過ぎる欠点があるとはいえ、アクセントには細心の注意が払われているので、決して暴力的には鳴らない。響の重心が安定しているので、それなりの法悦があるのも事実だ。
そこには弦と木管による強く柔らかい響があり、その存在価値は大きい。

全楽章を通し安心して聴けるわけだが、第1楽章の聴き所の一つ、展開部《L》からなどなかなか良い。ほんの少し金管を抑え、第2ヴァイオリンとヴィオラが頑張れば文句なしだし、《M》からはクラリネットが聴こえるのが嬉しい。

第2楽章では、手前(23小節〜)で少し駆け出してしまうとはいえ、副次部の響は期待通りの幸せをくれる。
駆け出すといえば、長いフルートソロでは145小節で転がるのが笑える。しかし、木管たちも音楽的でノーブルな響が素敵。

A3部分(《H》以降)のクライマックス部分では、“大きめ”の金管が決して粗野にならない強い響きの魅力を堪能させる。

第3楽章は、スケルツォもトリオも響の交錯が美しく素晴らしい。欠点は上品過ぎか?

トリオの125小節の休止は、124小節で微かにリタルダンドするためフェルマータ的に長く取られている。オフ・テンポになり拍が無くなるってことだ。

第4楽章は、主部のアレグロ・モデラートに入ってからが特に聴きものだ。
実はそれまでもそうだったのだが、例えば付点と複付点の弾き分けなどリズムがしっかりしているし、アクセントの付いた音とそうでない音をはっきり弾き分けてもいる。この主部の弦のアクセントを効かせた突出は、実に面白い。
そして、楔形の付いた音符の奏法は、一つの立派な回答ではないかと評価出来ると思う。

展開部前のコラールが決して喚かず荘厳にやや遠くから響くところなんか、天国への扉が開くイメージすら思い浮かべる。
そして、展開部からは丁寧でスケール大きく立体的な音楽が響く。本当に素晴らしい出来だ。
242小節からはクラリネットとヴィオラが同じフレーズを違うアーティキュレイションで奏するが、このパターンのバランスが絶妙だ。
こういうブルックナー特有の響をちゃんと再現してくれる演奏は、貴重だ。

624小節からのフルートが、はっきり聞こえるでもなく、な〜んとなく響いているのも凄いと思う。
このフィナーレは、大きめの金管もそれほど気にならないし、なかなかの名演。
気に入っちゃったヽ(^O^)ノ

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