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音が汚いテンシュテット

●マーラー:交響曲第5番
テンシュテット指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
<TOCE-13014という1988年12月13日のライヴ盤>

 テンシュテットマーラーは頗る評判がいい。絶賛する人も多いようだ。以前、全集盤の中からいくつかを聴いた感じでは、もちろんぼくも悪いなんて思わなかった。ただ、幸せな感じにななれないのが嫌だった。好きなタイプの演奏なハズなのに。
 自分で聴いておいて何で『ハズだ』なんて書くかというと、いつもその演奏に浸ることが出来ず疎外感を感じるからだ。好意をもって聴くのに、陶酔を許されない感じ。その理由の一つに音の汚さがある。肝心のところで音の汚さが気になって感動の妨げになるのだ。

 何でテンシュテットの音は汚いんだ?
 音が汚いから感動できないのか?

 そんな疑問の中テンシュテットを聴くならライヴ盤でなければダメだよという人も出てきた。そこでこのライヴ盤をしっかり聴いてみることにしたのだ。やっと、いろいろと解明できた。

 まずは全体をざっと聴いてみた。そしてこの印象は間違ってはいなかったということだ。
 全集盤と違って録音がイイ。でも、騒ぐほどの演奏とは感じないなぁ。音の響かせ方が、なんか力づく乱暴なところがある。だから外面的で心に響いてこない。これで、録音がよくなければ当然汚い音に聞こえるだろうなということを納得。第2楽章などアンサンブルの決めるべきところのタテの線があまいため、緊張感に欠如する。

 で、第1楽章から聴きなおしていった。全体の印象として悪くはないが、不満なところはけっこうある。
 まず、フォルティッシモのバランスがいわゆるメロディラインばかり強いのが気になる。そしてピアニッシモでも音が強い。副主題など力の抜き方が足りなくて少し息苦しい。大音量の部分も小音量の部分も常に音が強く表現の幅が狭く感じる。そのため本当のクライマックス部分である《18》など、鳴っている割りに凄みを感じさせない。このタイプの演奏であれば、ここはもっと破滅的な響きが欲しいところなのに。

 とにかく強音に“力み”がありすぎて音色が美しくなく、音楽的センスも今一なのがいただけないところだ。弱音が無いことは、音色を混ぜて新色を作りだすことが無いことにつながり、結局マーラーの色彩感が得られていない。
 2回目の、イ短調の中間部《15》などヴィオラの効きが弱いため今一面白くない。これじゃチャイコと同じジャン(-_-;)
 また、全体的に頑張り過ぎのホルンは、1回目の変ロ短調の中間部後半、《10》の前でリズムを崩しすぎるのはともかくとして、その前の3連符に入る2分音符を減衰させるのが軟弱だ。フレーズの息が短くなる原因の一つと言える。

 第2楽章も同じようなことが言える。マーラーの心に共感し、その音楽に愛情と情熱をもって演奏していることは理解できるが、音楽的に今一の部分が多い。これは前述の新色を作りだすことの無い融合しない音響と、常に力んだ響きになっていることが原因だと思う。その最も目立つのが、やはりホルンといえよう。例えば再現部のあと「怪鳥の叫び(《20》の3,4小節目)からなど、せっかくの強奏がまるで協奏曲のソロのようで曲中の重要な一つのパートということを感じさせないのだ。
 「怪物の叫び(《24》の9小節目)」の前、《24》の9小節前からだってヴァイオリンと絡んでこそ生きるパッセージなのに、ホルンだけ独立している感じで感銘が薄く、頑張っているだけにもったいない。

 ほんの少し力を抜けば強く美しい音楽が展開されそうなのに、結局第3楽章も前楽章と同じことが言える。ポリフォニー的なものが欠如している音楽。だから色彩感に乏しく面白みに欠け一本調子なのだ。いくつかあるマーラーの本質の一つだけを素晴らしく演奏しているだけという感じ。
 1回目のスケルツォ主題の展開からちょっと進んだところの、ホルンが2拍遅れでFの音を次々と重ねて強奏する部分(《10》のあと)など見事だが、80%の力でやれば完璧だったかもしれない。
 微妙にリズムがズッコケるティンパニには「何怒ってんの!?」(例えば《8》の1小節前)と言いたくなったりする。そして、このティンパニは《15》の強打を1小節早く叩いてしまう(-_-;)

 予想通り第4楽章は遅めのテンポだ。
 一音々々慈しむ様に進んでいく。それは良いのだが、今一つ美しくない。うすうす感づいてはいたが、ロンドンフィルって弦が弱いんじゃなかろうか。音色の美しさが足りないだけでなく表現の幅が狭い。表現の幅については指揮者の解釈も関係しているんだろうが・・・。
 感情が昂ぶり激高している最中に、フと我に返るような中間部のとらえ方など全くぼくの趣味とは違う。ぼくなら雰囲気の激変を求めたいところだが、中間部の直前が弱すぎてその後が強すぎ。つまり変化無しだ。終結の延ばしの音もディミヌエンドが早すぎて後ろ髪を引かれるような魅力的な情感が醸されない。

 そして第5楽章。ホルン信号を受けるファゴットからしてやる気満々。表面的には決して悪い演奏ではない。否、好意的に聴ける演奏と言えそうだ。しかし、この楽章も今まで指摘してきたことが全てあてはまる。
 力みすぎて曲想の変化に乏しく弦が弱いためにフーガの楽しさが物足りないし、単調な雰囲気と純音楽的な色彩感の乏しさで美しさが殺がれているのだ。
 例えば100小節や191小節のGraziosoですら、やる気が漲っている。
 また、やる気満々のティンパニは522小節のトレモロを落ち、548小節から入るべきトレモロを2小節はやく入ってしまう。

 テンシュテットマーラーは、心は伝わるが力みすぎて音に伸びやかさがかけ、バランスがポリフォニー的でない部分が多く、色彩感に乏しく単調な音楽なのだ。マーラーの音楽のいくつかある魅力の一つだけを素晴らしく演奏しているのだ。そして、音が汚いのは事実といえそう。

2005年5月17日(火)

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