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演奏家について

リリー・クラウス Lili Kraus (故人)
 
1908年、ブダペスト生まれの名ピアニスト。
 モーツァルトのソナタ全集を2回録音しているが、その最初の録音はいまだに最高の名盤だと思う。
 1980年の11月と12月には、読売日本交響楽団、NHK交響楽団と協奏曲を聴くはずだったのに、前者は安川加寿子、後者はジャン=イヴ・ティボーデに代わってしまった。今、思い出しても残念!

セルジュ・チェリビダッケ Sergiu Celibidache (故人)
 1912年、ルーマニア生まれの指揮者。
 高校1年の時、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲とプロコフィエフの古典交響曲の入ったLPを聴いて感動し、初めて音楽雑誌に投稿したのが「チェリビダッケ、チェリビダッケ、チェリビダッケ」という一文だった。読売日本交響楽団との演奏会に於ける印象の強さは、僕の聴いた演奏会のベスト3に入るかもしれない。

エフゲニ・ムラヴィンスキー (故人)

朝比奈隆 (故人)
 世界最高齢の現役指揮者で、文化勲章を受章した大阪フィルハーモニー交響楽団音楽総監督の朝比奈隆(あさひな・たかし)氏が2001年12月29日、死去した。93歳だった。自宅は神戸市灘区篠原北町4の4の3。<酒についてへ

 1908年7月9日、東京生まれ。旧制中学時代に独学でバイオリンを始め、京都大法学部時代は学生オーケストラで活躍した。31年に卒業、阪急電鉄に入社したが、プロの音楽家を目指して2年で退社。ロシアからの亡命指揮者エマヌエル・メッテル氏に指揮法を学んだ。40年に東京で、新交響楽団(現・NHK交響楽団)を指揮し、本格的にデビュー。第2次世界大戦中は中国大陸で上海交響楽団、ハルビン交響楽団などを指揮し、ヨーロッパから集まった楽員と演奏を重ねて国際的な感覚を身につけた。

 戦後の混乱期は、げた履き、ジャンパー姿で財界にオーケストラの窮状を訴えて回った。47年に関西交響楽団を創立。大阪の財界や市民の支援を得て、現在の大阪フィルに育てた。50年代からヨーロッパにも活動の場を広げ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などに客演し、国際的評価を得てきた。

 79年に朝日賞を受賞し、89年には文化功労者に選ばれた。94年にはクラシック音楽では山田耕筰氏以来2人目となる文化勲章を受章した。 日本指揮者協会会長などの役職を歴任。阪神・淡路震災復興支援10年委員会の委員を務めるなど、クラシック界の顔として社会貢献にも力を入れた。(以上Asahicom.から)

 僕が初めて聴いた朝比奈の演奏会は、1976年1月29日の第35回新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会で、ブルックナーの7番だった。第1楽章が終わった時点で、涙を流すほどの感動だった。

ハインツ・レークナー (故人)
 1929年生まれ。2001年12月10日、脳いっ血のため独ライプチヒの病院で死去、72歳。
 ライプチヒ生まれ。ライプチヒ放送響首席、ベルリン国立歌劇場音楽監督、ベルリン放送響首席などを歴任。84年から89年まで読売日響の常任指揮者を務め、その後は特別客演指揮者に。86年から94年にかけ、同響とベートーベン交響曲の全曲録音に取り組んだ。
 ワーグナー、マーラーなどのドイツ音楽や、近現代作品の演奏にとりわけ定評があった。2000年3月24日、東京でブラームスの第4番を指揮したのが日本での最後の演奏となった。この演奏会後、友人、義兄と「百年の孤独」を呑み、あまりの旨さに呑み過ぎて、次の日は皆で二日酔い。ゲロゲロしながら上野東照宮周辺を散策したっけ・・・。
 天才的な職人肌の名指揮者。僕の音楽造りの心の師でした。

 レークナーと読売日本交響楽団の軌跡

 こんのさんによるDiscography

宇野功芳
 昭和5年、東京生まれ。2016年6月10日死去。国立音楽大学声楽科卒業。
 主に合唱指揮、音楽評論で活躍しオーケストラの指揮もする。
 著作も数多いが、「オーケストラのたのしみ」(共同通信社)のベートーヴェン交響曲第9番の項の最後の方にある、「あるファンの手紙」とは僕の手紙。
 歯に衣着せぬ情熱的なその評論には、若い頃随分影響を受けた。カラヤンの演奏が良くないと思ったら「良くない」と言ってイイ、と言う事を教わった。
 1995年、宇野さんの演奏会が良くなかったので「良くない」と言ったら音信不通になってしまったが・・・。

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