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チェリビダッケ

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*1977年10月29日 読売日本交響楽団/ブラームス:交響曲第4番ほか

1978年3月18日 読売日本交響楽団/モーツァルトワーグナーレスピーギ

*1980年4月17日 ロンドン交響楽団/ムソルグスキー:展覧会の絵ほか
1980年4月21日 ロンドン交響楽団/ブラームス:交響曲第 1番ほか

1986年10月15日 ミュンヘン・フィル/ブラームス:交響曲第4番ほか
1986年10月22日 ミュンヘン・フィル/ブルックナー:交響曲第5番

1990年10月16日 ミュンヘン・フィル/ブルックナー:交響曲第4番
1990年10月20日 ミュンヘン・フィル/ブルックナー:交響曲第8番

1977年10月29日(土)
読売日本交響楽団 第135回定期演奏会

東京文化会館

ベルク:ヴァイオリン協奏曲
ブラームス:交響曲第4番

指揮:セルジュ・チェリビダッケ
ヴァイオリン:ロニー・ロゴフ
読売日本交響楽団


 ロニー・ロゴフのヴァイオリンは実に良い音だった。内面的な美音とでも言おうか。
 ブラームスは超名演だ。しかし、その良さを言葉で表現することは非常に難しい。
 第1楽章冒頭のヴァイオリンは綺麗なピアニッシモで、悲哀より寂寥が漂う。その後の木管の生かし方は実に新鮮で、透明な響きが見事。第2楽章のホルンはまさに別世界の音だし、スケルツォのフォルテは全く言い表すことの不可能な響きを持っていた。
 また、各楽章フォルテで終わるとき、ややディミヌエンドするのに、物足りなさは感じず、逆に寂寞とした雰囲気が漂い、何かを問いかけられているようだった。
 とにかく実に見事な演奏、はじめて接する響きであった。
 アンコールは4番のスケルツォ。

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1978年3月18日(土)
読売日本交響楽団 第140回定期演奏会

東京文化会館

モーツァルト:交響曲第41番ハ長調「ジュピター」
ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死
レスピーギ:ローマの松

指揮:セルジュ・チェリビダッケ
読売日本交響楽団


 やはりチェリビダッケは本物だった。彼の考えは正に全うされている。
 ジュピターの音楽の造り方は、根本的には前回のブラームスと同じで、終始弱音に徹している。精神的、男性的、強烈な意志などの言葉は連想させないが、決して軟弱ではない。なんにしても響きの透明さがすごく、ニュアンスの豊かさに驚き、それが実に自然なのに感心する。
 第1楽章とフィナーレ、特にフィナーレはその表情の多彩さに敬意の念を抱くほどだ。音楽的な、あまりに音楽的なジュピター! 僕らは普段聴くことのできない、異次元の音楽を聴けたのだ。(ただし、第2楽章だけは表現が形骸化しているようで、テンポももたれ気味でいただけなかった)
 しかし、ジュピターと前回のブラームスだけでは、チェリビダッケを認めるわけにはいかない。次のワーグナーとレスピーギで、完全に打ちのめされるのだ。
 すなわち、両曲とも音楽的なことには違いないが、ワーグナーでは、はじめて彼の体臭を感じさせ、フォルテを用いたのだ。弱音が美しいのはもちろん、愛の死におけるクロマティックの無限旋律が輪廻を必要としないほどに生きて盛り上がる様は、我を忘れさせる。
 そしてローマの松では、ついにフォルティッシモを響かせたのだ。無機的でなく、力みもない自然な、本当の音楽的なフォルティッシモ! 溢れ出る涙を止める術が無かった。

 チェリビダッケは、かつて一度も妥協したことが無いと語ったが、彼の音楽は本当に彼の考えの通り妥協の無い音楽だと感じさせる。一言で言えば「自然」ということなのである。自然という言葉の意味はいろいろあるが、チェリビダッケの音楽は自然の一つの一つなのだ。
 そして彼は空間の大切さを主張してレコードを作らないが、彼の演奏会に接すればそれも十分納得できる。演奏家というものは、常に即興的でなければならない。そしてその日の聴衆の雰囲気を敏感に察知して、その雰囲気が要求している音楽を作るわけである。
 人一倍自分の音楽を大切にするチェリビダッケとしては、そのことを最大限に重要視するわけなのであろう。それを考えれば彼のレコード否定も納得できるというものだ。

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1980年4月17日(木)

東京厚生年金会館

コダーイ:ガランタ舞曲
ラヴェル:組曲「マ・メール・ロワ」
ムソルグスキー(ラヴェル編):展覧会の絵

指揮:セルジュ・チェリビダッケ
ロンドン交響楽団


 相変わらず透明で、自然な音楽であったが、今日はオケにほんの少し力みがあったようだ。

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1980年4月21日(月)

東京文化会館

コダーイ:ガランタ舞曲
ラヴェル:組曲「マ・メール・ロワ」
ブラームス:交響曲第1番

指揮:セルジュ・チェリビダッケ
ロンドン交響楽団


 今日はぐっと素晴らしくなった。
 ブライチがあのように響くとは・・・。アンコールのハンガリー舞曲が、ああなるとは・・・。
 こうして、ここに書き留めることに、どれだけの価値と意味があるのだろうか!?

 音楽とは、テンポと音量、そして響きなのだ!!
 完璧!

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1986年10月15日

東京文化会館

ロッシーニ:「どろぼうかささぎ」序曲
R.シュトラウス:交響詩「死と変容」
ブラームス:交響曲第4番

指揮:セルジュ・チェリビダッケ
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団


 前回はチェリの解釈というふうに感じていたのだが、今回は実に豊かな音楽、オケが自発的にちゃんと音楽しているという感じだ。基本的にチェリの音楽造りが変わったわけではない。これが、完成された姿なのであろう。求めるものは全てそこにある。そういう音楽だ。
 すなわち、表面的には何も特別なことはなく、全く平凡に曲が流れていくかのようだが、その実、響きの有機的なことこの上ない。ほんの短いソロ一つとっても、そのフレーズの音楽的且つ、神経の行き届いていることと言ったら、他に例がないのではなかろうか。チェリの心で鳴っているフレーズと、オケのメンバーが奏しているフレーズが、全く同じなのだろうと感じさせる。
 クライバーはあおっておいて団員の自発的演奏に任せるわけだが、チェリの場合は、チェリの心の音楽イコール団員の心で鳴っている音楽なのだ。
 ブラームスの第2楽章など、広く、深く、そして静かな湖を思わせるような豊かさだし、スケルツォのアクセントの意味深さは、全く純音楽的。
 アンコールのハンガリー舞曲は、前回よりテンポが遅く、その分自在感が減ったが味の濃さは満点。ピツィカートポルカもあんなに豊かな音楽性を感じさせられたのは初めてだ。

 オケの特性を100%出すのがチェリビダッケの魅力と言える。
 深さ、豊かさ、静けさなどはミュンヘンフィルが音楽的に完璧に演奏すると、出てくるものなのであろう。シュトゥットガルト放送交響楽団との場合は、もっと明るく、新鮮さがでる。ロンドン交響楽団や読売日本交響楽団の場合は、その実力を出させるために、チェリが自分を前面に出しているというか、オケを引っ張っている感じがする。
 チェリの音楽は、聴くもののキャパシティーの大きさを試すようだ。

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1986年10月22日

サントリー・ホール


ブルックナー:交響曲第5番

指揮:セルジュ・チェリビダッケ
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団


 1フレーズ、1音響たりともチェリの音楽性から逃れているものはない。そのチェリの支配下の音楽は、決してチェリの強制でなく、オケの自発的な音楽なのである。
 やはり、求めるものは全て在るという感じ。
 あの遅いテンポでも決して退屈しないのは、音符一つ一つが音楽しているし、生きているし、フレージングが実に自然で押し付けが無いからだろう。
 前から4列目の右側で聴いたのだが、全てのパートが透かし彫りのごとく立体的に聞こえてくるし残響もちょうど良かった。凄いホールだ。
 アダージョ第2主題の歌わせ方の深遠さは見事。そしてフレージングの自然な強弱の心地よさ! 39小節からのホルンのきざみのピアニッシモは厳しさの極みだ!

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1990年10月16日

サントリー・ホール


ブルックナー:交響曲第4番

指揮:セルジュ・チェリビダッケ
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団


 こんなに凄いブルックナーの第4交響曲は初めて聴いた。
 朝比奈が良い、マタチッチが素晴らしいといっても、それはブルックナーの音楽に彼らの個性が溶け込んでいた。ロマン派的に解釈したとても感動的な宇野さんの演奏は、ブルックナーを借りた宇野功芳のみの音楽だった。
 しかしチェリは違う。
 ブルックナーによって完成された音楽が、完成されたままに鳴り響くのだ。別にブルックナーでなくとも良い。しかし、ブルックナーだからこそ、あの音楽になるというのも事実だ。
 物凄い生命が感じられるが、ソロもトゥッティも決してはしゃがないので、即興性は感じさせない。オケとしての即興性というものは、やはり音楽に不純物が混入する。即興性に溢れた音楽は大好きだが、それもチェリの音楽の前では無意味のような気がしてくる。

 第1楽章305小節からの金管のコラール風主題が、なんて深い精神性を湛えて感動的に演奏されたことか。ブルックナー独特のゼクエンツが、毎回表情を変えるのにも関わらず、決して色彩的にはならない。そう、これは全体を貫くチェリの音楽の基本である。
 第2楽章チェロのテーマは、もうそのたった2小節を聴いただけで天国を見るような、すなわち未体験の想像外の音象だ。229小節からのティンパニのppを大きめに叩かせるのなら、あのようにやらなければダメなのですよ、宇野さん。すなわち、同じ音の連打というのは1つ1つの音が同じ発音で叩かれてこそ、音楽的表情ができてくるのだ。
 スケルツォのみ普通のテンポに感じられた。しかし、そのリズムとバランス変化の妙は、相変わらずだ。それが、少しの人工性も感じさせることなく、ハデにならずにエスプレッシヴォなのが凄い。まさに、チェリの心イコール団員の心といったところか。
 フィナーレは前3楽章の集大成だ。
 全ての音、そう、一音たりとも無意味な音はない。
 お互いを信頼し、お互いの音楽をffに於ても尊重しあってこそ、あの響きとバランス変化の妙が脈々と息づくのであろう。
 そして、とどめのコーダがやって来る。
 僕は一瞬、何がなんだか分らなくなってしまった。物凄く遅いテンポで弦のきざみの6連符がアクセントをを伴ってしたから湧いてくると、そのまま緊張の糸が切れることなく、天に到達すべく永いクレッシェンドが続いたのである。

 窒息しそうな位なのに、苦しくない。いったいこれは何だ?
 そのまま死んでも全く苦しくないと感じるほどの、言葉で言い表せない感情だ。
 今まで、僕が聴いてきた音楽、またアマチュアながら演奏してきた意味、それが何になるというのだ。
 これが、このチェリビダッケとミュンヘン・フィルによる音楽こそが、真実なのではなかろうか?
 心の奥深いところからじわじわと沸き上がる、能動的な感動。
 これが、ブルックナーの交響曲第4番だったのだ!

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1990年10月20日

サントリー・ホール


ブルックナー:交響曲第8番

指揮:セルジュ・チェリビダッケ
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団


 何せ、席がチェリの真後ろ。コンマスを筆頭とした各奏者の表情付けが手に取るように分るのだが、全体としての響きとして結実しない。この状態で、例えば2階RCブロックの音が聴けたら最高と思われる。
 フィナーレ第3主題の表情付けは、特に忘れ難い。
 ・・・テレビに映ってしまった。

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